西部山口線

もともとは、1950年(昭和25年)に開業した多摩湖ホテル前駅とユネスコ村駅を結ぶ単線「おとぎ線」を走る「おとぎ列車」という名称の遊戯施設で軌間762mmの「軽便鉄道」だった。

1952年(昭和27年)に「おとぎ列車」を地方鉄道法に基づく地方鉄道に転換、「山口線」と改称した。おとぎ列車の名はその後も用いられた。運賃は西武鉄道の他の一般鉄道路線とは別建てで、大人片道200円、子供片道100円で、営業時間は9:30から17:30まで。当初は蓄電池機関車(バッテリーロコ)だけだったが、1972年(昭和47年)に日本の鉄道100年を記念して蒸気機関車の運行を開始し、平日は蓄電池機関車、冬季以外の休日は蒸気機関車が走っていた。蒸気機関車の交代を前にして1976年(昭和51年)に運行を休止してトンネルの切り通し化や架道橋の架け替えなどの改修を行なって路盤強化を図った結果、それまで運行されなかった蒸気機関車の重連運転も行なわれるようになった。

吉田剛の引退後

引退後は2007年までラジオ大阪の野球解説者として活躍していた一方、大阪府八尾市で飲食店を経営。また実家が精肉店を営んでいたこともあり肉料理に造詣を持ち、大阪市中央区で「豚肉料理 吉田」のオーナーもしている。

1984年秋のドラフト2位で近鉄バファローズが指名。しかし明治大学に進学予定だったため事態は長期化。翌年、キャンプインしてから入団発表するという異例の事態に発展した。1988年から1995年にかけて大いに活躍したが、中村紀洋、水口栄二、武藤孝司ら若手の台頭で出場機会が激減し、主に代打、代走、守備固めで起用されることとなる。

2000年シーズン途中に、杉山賢人とのトレードで西川慎一とともに阪神に移籍。この年阪神では36試合に出場し活躍した。

中でも2000年7月19日の対巨人戦(阪神甲子園球場)では、延長10回裏に桑田から左中間を破るサヨナラ安打を放ち、16年前の夏の甲子園の決勝戦を再現してみせた。ヒーローインタビューで「三年のときに桑田から本塁打を打ったのはよく覚えています。打った球はカーブかな。桑田とは公式戦では甲子園以来。一塁には清原が守っているし、打席に入って久しぶりという感じがした」と語り、「阪神に入団してから早くここに立ちたかった」とコメントをした。野村克也監督は「吉田はベテランの味を見せてくれた」と褒めた。

47年グループ

1947年にスタートしたドイツの戦後派新進作家の集まりである。ハンス・ヴェルナー・リヒター(de:Hans Werner Richter)がメンバーを集め、会合を主宰した。会合は1967年まで継続した。当時の新進作家の多くが参加し、戦後のドイツ語圏の文学活動を牽引した。

1946年に、アルフレート・アンデルシュ(de:Alfred Andersch)とハンス・ヴェルナー・リヒターが定期刊行物『Der Ruf(呼び声)』を刊行したのが始まりである。『Der Ruf』刊行の目的はヒトラー政権崩壊後のドイツに民主主義思想を教育・啓蒙することにあった。1947年7月、『Der Ruf』誌への寄稿者たちが集まり、新たな文学雑誌『Der Scorpion(スコーピオン)』の創刊を企画、またそのためメンバーが定期的に会合を開き、自身の原稿を朗読し、互いに批評し合うことを取り決めた。ヴェルナー・リヒターがこの取り決めに基づいて参加メンバーを集め、同年9月に第1回会合が行なわれた。この会合でゲオルク・ブレナーが1947年に因んで「47年グループ」と名付け、またハンス・ヴェルナー・リヒターはなんら特権をもたないながらも会合の主催者として位置づけられることになった。

その後の山一

自主廃業発表後、顧客保護を理由にあわただしく無担保の日銀特融が実施された。日銀特融はピーク時で1兆2千億円にのぼった。

12月13日、常務業務監理本部長の嘉本隆正が委員長となって、社内調査委員会が発足した。3月26日にレポート『社内調査報告書-いわゆる簿外債務を中心として-』は完成し、4月16日に一般に公表された。

翌1998年(平成10年)3月4日、行平と三木の元社長2人、ならびに元財務本部長の3人が、最大2,720億円の損失を隠して虚偽の有価証券報告書を作成したという証券取引法違反の容疑で東京地検に逮捕された。行平と三木にはさらに、粉飾決算の容疑がついていた。2000年(平成12年)3月に、行平と三木に有罪の判決が下された。初審で執行猶予が付いた行平は判決を受け入れたが、実刑判決だった三木は控訴し、控訴審では執行猶予となっている。

エディゲレロ

1993年、3代目タイガーマスク(金本浩二)のライバルとして2代目ブラックタイガーが登場正体はエディゲレロだ。

1996年には、獣神サンダー・ライガーを破りベスト・オブ・ザ・スーパージュニア初優勝。同年、ザ・スカイダイビング全試合Jrオールタイトルマッチでのメインで当時IWGPジュニア王者だったザ・グレート・サスケに挑戦。得意技はスイングDDTとBTボム。

初代ブラック・タイガーと違い、当初のライバルであった3代目タイガーマスクが短期間でマスクを脱いで素顔での活動を開始したため、タイガーマスクのライバルという位置づけよりも、ワイルド・ペガサスとともに強豪常連外国人選手として扱われ、エル・サムライや獣神サンダー・ライガーとともに当時の新日本プロレスジュニアヘビー級戦線のトップとして活躍。ブラック・タイガー、ディーン・マレンコ、ライガー、ペガサスの四人を新日本ジュニアヘビー級戦線の「四天王」「フォー・ホースメン」と呼ぶ声もあった。

さらには、タイガーマスクから素顔に戻った金本浩二や大谷晋二郎、高岩竜一の「トンガリ・コーンズ」やケンドー・カシン等の若手ジュニアヘビー級選手の壁となった。

エピソードとして、「ワールドプロレスリング」で対ライガー戦の実況中に、解説のマサ斎藤が「こういう試合はエディには、不向きですね。」とうっかり正体を喋ってしまったことがあった。

ロンヤス

レーガンと中曽根のお互いの呼び名について。

中曽根を「ヤス」と呼び、レーガンを「ロン」と愛称で呼ぶ仲となり、この呼び方は当時「ロン・ヤス」とあだ名されてお互い交流を結んだ。そうした背景から、レーガンは1983年11月9~12日、1986年5月4~、1989年5月2~7日と、現職のアメリカ大統領としては最多の三度にわたり日本を公式訪問している。

最初の訪日では昭和天皇や中曾根総理と会談したほか、キャンプ・デービッドへ招待された答礼として中曾根が、11月11日に東京都西多摩郡日の出町の別荘「日の出山荘」に招き、蔦子夫人手作りの昼食を共にしたことが大きな話題となった。2006年のレーガン国葬にも当時88歳の中曾根はたっての願いで参列して故人を惜しんでいる。

青酸コーラの

1977年(昭和52年)1月3日午後11時半ごろ、東京都港区で東海道新幹線の列車食堂のアルバイトに就いていた男子高校(当時16歳、京都市在住)が、アルバイト先から宿舎へ戻る途中、品川駅近くの品川スポーツランド(現在の品川プリンスホテル:1978年(昭和53年)開業)正面にある公衆電話に置かれていた、未開封のコカ・コーラを拾い宿舎に持ち帰った。

翌4日の午前1時過ぎに飲んだところ、男子高校生は異様な味を感じ、すぐに吐き出し水道水で口を漱ぐが、突然倒れてしまった。男子高校生は意識不明の重体となり、直ちに病院に運ばれ、胃洗浄などの救命処置が行われたが、まもなく死亡した。死因は青酸中毒だった。

そして、悲劇は第二、第三と続く。

その後、毒入りチョコレートに移っていく。 物騒な事件があったものだ。

猿も木から・・・ではなく

巨人・松井秀喜臨時コーチがなんとノックで空振りしたと言う。

ノックのコツは、体から遠くに上げて打つことらしいが、そのトスの上げ方に問題があるのだそうだ。

どんな強打者でも、それとは関係のない所で苦手、と言う事はあり得るだろう。

だから今回の事も猿も木から落ちる、という事例ではないのかもしれない。

 

スキルの短命化

かつては、スキルの寿命というものは200年位あった、と言われる。

初代が亡くなっても、その子供に引き継がれ、さらに孫の代までそのスキルで生活していくことができた。

職人に代表される様な、業の継承でいけた訳だ。

事業自体の寿命がどんどん短くなっているので、どうにもならないのだ。

凄い世界になったものだ。

上方落語の発展

大正から昭和初期にかけては初代桂春團治、2代目桂三木助、3代目三遊亭圓馬、2代目立花家花橘、初代桂小春團治(のち舞踊に転じ花柳芳兵衛)らが人気を集めたが、やがて横山エンタツ・花菱アチャコなどの新興の漫才の人気や吉本興行部による定席の寄席や諸派の買収、看板落語家の相次ぐ他界もあって衰亡の危機にさらされた。

この原因としては、落語家同志の内部抗争でまとまりが無かったこと、漫才がニュース性のある新しい笑いを創造(エンタツ・アチャコがラジオの大学野球の中継から『早慶戦』を作ったのが好例)したのに対し、旧態依然の古い芸に安住してファンが離れ、吉本興行部(なかんずく林正之助)に商品の価値が無いと見なされたことなどがある。そのなかで、唯一、新しい笑いを提供し多くのファンを獲得したのが初代春團治であった。レコードという新しいメデイアをフルに用い、ギャグ満載のナンセンスな演出は今日の上方落語に大きな影響を与えた。だが、いかんせん孤軍奮闘の感を禁じ得ず、春團治の死によって上方落語はその王座を漫才に譲ったと見られていた。

この危機にあって5代目笑福亭松鶴、4代目桂米團治らは「楽語荘」というグループを結成し、落語会「上方はなしを聞く会」の運営や雑誌『上方はなし』の発行などを通じて上方落語の保存・継承に尽力した。

戦時中は漫才師、漫談家はわらわし隊などの慰問団で中国などに派遣される中落語家は慰問先で座って演じるのは酷なので呼ばれず、その間は比較的空襲の少なかった神戸や京都などで富裕層や芸者などの客相手に落語会を開いて人気を呼んでいた。