大行天皇

大行は「大いなる行い」を意味し、ここでは死去した天皇への顕彰を表す語として用いられている。また、「逝きて帰らぬ天皇」の意味があるともいわれている。

明治時代に一世一元の詔により定められ、昭和時代に元号法によって法定された一世一元の制に基づけば、天皇在位中の元号をもって追号とされることが通例である。ただ、追号が贈られるのは大喪の礼に先立って行われる追号奉告の儀を執り行ってからである。そのため、『大行天皇』の称号は、追号奉告の儀以前の段階に於いて用いられる。使用例としては、崩御した前天皇の名を官報に掲載する場合や、新天皇の御誄(おんるい、弔辞)などがある。

各宗教団体の機関紙などでは「大行天皇の追悼法要営まれる」などと掲載されている。例えば、仏教教団において位牌をたてる場合などには、追号が贈られるまでは白木や紙で仮の位牌を立てたりして法要を営む場合もある。

オクタビオ・パス

メキシコ・シティ出身。進歩的文化人だった祖父の影響で文学的関心を深め、19歳で処女詩集『野生の月』を発表している。1937年、内戦下のスペインで開かれた反ファシスト作家会議に参加。翌年に帰国してからは、新世代を代表する作家として精力的な執筆活動を開始する。1944年にアメリカに留学、翌年にはパリに渡る(この時、アンドレ・ブルトンらの知遇を得る)。

1946年には外交官になり、ヨーロッパ各国を転々としながら『弓と竪琴』『孤独の迷宮』などを執筆する。しかしメキシコシティオリンピック直前に起こった反体制デモに対する政府の弾圧に抗議してインド大使の職を辞し、その後はケンブリッジ大学やテキサス大学、ハーバード大学などで教鞭を採りながら執筆活動を展開した。ノーベル文学賞ほか多くの賞を受賞し、自身の主宰する雑誌「ブエルタ」(es)も、1993年にアストゥリアス皇太子賞コミュニケーション及びヒューマニズム部門を受賞した。

グリコ・森永事件

1985年8月7日、ハウス食品事件で不審車両を取り逃がした滋賀県警本部長が自身の退職の日に本部長公舎の庭で焼身自殺をする。遺書は残されていないが、一般に失態の責任を取ったと解釈されている。ハウス食品事件の失態の責任を全て負わされたことに抗議するための自殺だったとする説もある。本部長はノンキャリアからの叩き上げであった。

8月12日、犯人側から「くいもんの 会社 いびるの もお やめや」との終息宣言が送りつけられた。理由は、その5日前に自殺した滋賀県警本部長への香典代わりというものだった。

脅迫状の届いた会社の一つであったハウス食品工業社長の浦上郁夫はこの事件の終息を同社の創業者・前社長であり父親にあたる浦上靖介の墓前に報告するために8月12日に日本航空123便に搭乗し、日本航空123便墜落事故に巻き込まれこの世を去った。

この終息宣言の後完全に犯人の動きがなくなった。

ゲオルギー・ガポン

ガポンはポルタヴァ地方の富裕な地主の家に生まれ神学校で学んだ。妻の死後サンクトペテルブルクの大学で神学を専攻し1903年に卒業した。

ガポン神父はサンクトペテルブルクの労働者を集め、労働者組織を作り上げた。組織の目的は産業革命が始まりつつあったロシアの労働者の権利を保護し、モラルと信心を高める事にあった。組織は規模を急拡大させ、12の支部に8,000名の構成員を数るまでになった。

シチズン

2005年(平成17年)の会社設立75年を記念して、新しくスローガンとして「CITIZEN Micro HumanTech(マイクロ・ヒューマンテック) もっと小さく、すごくわくわく。」を掲げた。これは、「マイクロ、それは私たちのドメインです」「ヒューマン、それは私たちの理念です」「テクノロジー、それは私たちの基盤です」という会社の3つの理念を形にしていこうという考えから付けられたものである。

大阪環状線

大阪市の都心部外周部を環状運転している環状線であり、JR西日本のアーバンネットワークの中心路線として機能している。ラインカラーは赤で、大阪のダイナミズムをイメージしている。

大阪環状線は、東海道本線と関西鉄道(のちの関西本線)を連絡する東側の城東線、旧淀川の右岸を走る北西側の西成線の一部(元の西成鉄道の桜島線以外の区間)、南側の関西本線と貨物線の一部を、戦後の高度経済成長期に西側の臨海部に新線を造って接続したものである。

成立時点ですでに内側に適当な用地がなかったこともあり、環状線内を横断・縦断する地上路線は存在しない。大阪市営地下鉄は従来から地下を横断・縦断しており、地下鉄以外でもJR・私鉄ともに地下区間により横断・縦断路線を建設する計画が何度か立てられ、2009年までにJRではJR東西線、私鉄では阪神なんば線・近鉄難波線・近鉄奈良線の西九条駅 – 鶴橋駅間が実現している。

スムートホーリー法

第一次世界大戦後まもなく、アメリカ国内では保守主義が強まり、共和党が政権を獲得した。第一次世界大戦中に債務国から債権国に転換したにも拘らず、ほぼ1920年代にわたって共和党政権下で保護貿易政策が採られることになった。このことは、大戦によってアメリカに債務を負ったヨーロッパ諸国の負担をより深刻なものにさせた。

1929年、ニューヨークのウォール街における株式大暴落に端を発する大恐慌が起こった。この恐慌は各国へ広まり世界恐慌へと発展するが、当時のフーヴァー大統領(共和党)は、国際経済の安定より国内産業の保護を優先する姿勢をとった。こうした中で、スムート・ホーリー法が定められることとなった。

多彩なラリージェニングス

デトロイトでボイラー技師をしていた頃、近所にプロ・マジシャンのロン・ウィルソンが引っ越してくる。このロン・ウィルソンに見せてもらったマジックの数々に感動してマジックを始める。その後カリフォルニアに引っ越し、マジック・キャッスルに常駐していたダイ・バーノンに弟子入りした。1969年に日本に来日。演技者としても研究者としてもとても優秀な人物であった。

代表作は「ワンカップルーティン」、「スタック・オブ・クォーター」など多数。

ウェスティングハウス・エレクトリック

19世紀後半、エジソンと同時代の発明家、ジョージ・ウェスティングハウスがその発明を事業化したのが始まり。創業期においてウィリアム・スタンリー、ニコラ・テスラら天才的な技術者を多数擁し、交流発送電による電力事業を開拓、その技術を確立した。

また主要な陸上交通であった鉄道の動力装置や、自動空気ブレーキシステム等、基礎となる安全技術の発展に貢献した。放送の黎明期においても、主要都市にラジオ・テレビ局を次々と開局。

CBSを買収した当時、ウェスティングハウスが保有していたテレビ局が5局あったが、CBSの加盟局でなかった3つの都市のテレビ局はネットチェンジが行われた末、CBSの直営局となっている。また、自らテレビ番組の製作部門も持っていた。

以来、電気、機械関係を中心に軍事用・民生用の双方で多岐に渡る事業を展開。1950年代以降は加圧水型原子炉(PWR)の開発・製造で独占的地位を占めた。

花王の多角化

かつてはフロッピーディスクやDATテープなどの磁気メディア事業や医薬品事業にも進出したが、様々な経営判断により撤退した。

また、トイレタリー商品の通信販売事業「花王セレクトショップ・はっぴぃ工房」を主要ローカルテレビ局やインターネットなどで広告展開をしていたが、それも2005年3月で終了となった。

なお、通信販売事業はその後業態を変え、製造終了品・店頭に見当たらない(近くの店で見当たらない、又は行きつけの店で取扱いが無くなった)製品・製品の付属品を扱う「花王ダイレクト販売サービス」や通信販売専用化粧品ブランド「オリエナ」に継承されている。