上方落語の発展

大正から昭和初期にかけては初代桂春團治、2代目桂三木助、3代目三遊亭圓馬、2代目立花家花橘、初代桂小春團治(のち舞踊に転じ花柳芳兵衛)らが人気を集めたが、やがて横山エンタツ・花菱アチャコなどの新興の漫才の人気や吉本興行部による定席の寄席や諸派の買収、看板落語家の相次ぐ他界もあって衰亡の危機にさらされた。

この原因としては、落語家同志の内部抗争でまとまりが無かったこと、漫才がニュース性のある新しい笑いを創造(エンタツ・アチャコがラジオの大学野球の中継から『早慶戦』を作ったのが好例)したのに対し、旧態依然の古い芸に安住してファンが離れ、吉本興行部(なかんずく林正之助)に商品の価値が無いと見なされたことなどがある。そのなかで、唯一、新しい笑いを提供し多くのファンを獲得したのが初代春團治であった。レコードという新しいメデイアをフルに用い、ギャグ満載のナンセンスな演出は今日の上方落語に大きな影響を与えた。だが、いかんせん孤軍奮闘の感を禁じ得ず、春團治の死によって上方落語はその王座を漫才に譲ったと見られていた。

この危機にあって5代目笑福亭松鶴、4代目桂米團治らは「楽語荘」というグループを結成し、落語会「上方はなしを聞く会」の運営や雑誌『上方はなし』の発行などを通じて上方落語の保存・継承に尽力した。

戦時中は漫才師、漫談家はわらわし隊などの慰問団で中国などに派遣される中落語家は慰問先で座って演じるのは酷なので呼ばれず、その間は比較的空襲の少なかった神戸や京都などで富裕層や芸者などの客相手に落語会を開いて人気を呼んでいた。